はじめに:あの紙は、なぜいつも「あ」とぐるぐるで埋め尽くされているのか
平成(昭和も)あるある~文房具屋の試し書き用の紙に、意味不明なグルグルや「あ」という文字が大量に書かれている。
文房具屋さんや書店の文具コーナーで、ボールペンやサインペンを試し書きするための紙——「ご自由にお試しください」と書かれた、ちょっとくたびれた白い紙が吊り下げられているか、台の上に置かれているあれです。
その紙をよく見ると、必ずといっていいほど決まったものが書いてあります。意味のないぐるぐるとした渦巻き、「あ」「い」「う」という平仮名の羅列、誰かの名前らしき文字、「テスト」という文字、そして下手なイラスト——。全体的にカオスな状態で、しかし眺めているとなんとなく面白い。
「なぜ試し書きをするとき、みんな同じようなものを書くんだろう」——昭和から平成にかけて文房具屋さんへ行くたびにそう思った経験のある方は多いのではないでしょうか。本記事では、試し書きの紙に「あ」やぐるぐるが書かれる理由とその心理、そして試し書き文化にまつわる昭和・平成のあるあるを、事実に基づいて振り返ります。
第1章:試し書きの「あ」はなぜ「あ」なのか
試し書きをするとき、なぜ多くの人が「あ」という文字を書くのでしょうか。
この現象には、いくつかの理由が考えられます。まず、日本語の学習は「あいうえお」から始まるという習慣的な記憶があることです。書き方の練習として「あいうえお」を繰り返し書いてきた経験が身体に染みついており、「何か書く」という場面でつい「あ」が出てきてしまうという側面があります。「学校の書写練習で『あいうえお』から始める記憶が残っていて、自然と書いてしまう人も多い」という指摘も見られます。
次に、「あ」という文字が比較的筆記具の試し書きに適しているという実用的な理由もあります。「あ」は複数の方向に曲線と直線が混在している文字で、ペンの書き味を確認するにあたって様々な筆跡の特性が確認しやすい文字です。インクの出具合、紙への引っかかり、線の太さ——これらを一文字で広くチェックできるという意味で、無意識のうちに選ばれやすいのかもしれません。
さらに、「特に書くことを思いつかないときに書きやすい、最初に思い浮かぶ文字」という単純な理由も大きいでしょう。真剣に何かを書こうとするわけでもなく、とりあえずペンを走らせてみるという場面で、最も自然に出てくる文字が「あ」なのです。
第2章:「ぐるぐる」の正体——螺旋と円が選ばれる理由
「あ」と並んで試し書き用紙の定番なのが、ぐるぐると描かれた渦巻きや円です。なぜ、文字ではなくこのような図形が自然と出てくるのでしょうか。
ぐるぐるとした渦巻きや円を描くことは、ペンの書き心地を確かめるうえで非常に合理的な方法です。曲線を連続して描くことで、インクの流れの安定性、線の太さの均一性、筆圧に対するペンの反応などを確認できます。また、線が途切れないように描き続けることで、インクの出始めと継続時の状態をチェックできます。
心理的な観点からも、何も書くものが思いつかないときにぐるぐると描く行為は自然な動作です。手を動かすことそのものに集中するような、一種の無意識の落書きとして、ぐるぐるは最もシンプルで反射的な手の動きのひとつです。
また、自分の名前を書く人も多いですが、名前はプライバシーの問題もあってためらいがちです。そこで「誰のものでもない文字や図形」として、ぐるぐるが選ばれやすいという側面もあるでしょう。
第3章:試し書き用紙が「文化の記録」になっていく不思議
試し書き用紙は、長い時間をかけて多くの人の書き跡が積み重なっていく、独特の記録媒体です。
文房具屋「文化堂」の試し書きコーナーを取材した記事によれば、試し書き用紙には「シンプルでありながら目を惹く単語が並んでいる」「『あ』という文字が多い」「カラーペンの試し書きコーナーでは思いのままに書かれた色のアートになっている」といった様子が観察されています。さらに「試し書き上でのコミュニケーション」——つまり、前の人が書いたものに反応するような書き込みが見られることもあるとのことです。
この記録の積み重なりは、ある意味で「不特定多数の人々の無意識の痕跡」の集合体です。誰もが「記録を残そう」と思って書いているわけではないのに、結果として試し書き用紙には時代と場所の断片が刻まれていきます。消えていく前の試し書き用紙は、現代アートのインスタレーションのような趣があるとも言えるかもしれません。
昭和・平成を通じて、この試し書き文化は変わることなく続いてきました。ペンの種類が変わり、文房具店のレイアウトが変わっても、試し書き用紙に「あ」やぐるぐるを書く人間の行動は変わらなかったのです。
第4章:子どもの試し書きと大人の試し書きの違い
試し書き用紙に何を書くかは、書く人の年齢や目的によっても異なります。
子どもが試し書きをするとき、目的は「ペンが書けるかどうか確認する」ことよりも「書くこと自体が楽しい」という要素が強くなります。好きなキャラクターの名前、友達の名前、かわいいハートや星のイラスト——子どもの試し書きは、短時間でも自由な創作活動の場になりがちです。
大人の試し書きは、より実用的な目的に近づきます。「このペンの書き心地を確かめる」「インクが滲まないか確認する」といった実用的な観点から、線を引いたり「あ」と書いたり、自分の名前をさらっと書いてみたりします。
しかし面白いのは、大人になっても「試し書き」という文脈では、無意識のうちに「ぐるぐる」や「あ」に戻ってしまうことが多いという点です。普段は手紙や書類など目的のある文章を書き慣れている大人でも、「ただペンの書き心地を確かめる」という目的のない状況では、最もシンプルで反射的な行動——ぐるぐる、あいうえお——が出てくるのです。
第5章:「試し書き」をめぐる文房具店の光景
昭和から平成にかけての文房具屋さんには、試し書きをめぐる固有の文化がありました。
試し書き用のペンが紐でカウンターや棚に繋がれており、その紐の長さの範囲内でしか書けない——そんな制約の中で、来店者は思い思いに試し書きをしていきます。繋がれたペンの試し書きをするために前かがみになったり、ちょっと体を傾けたりしながら書いていた光景は、文房具店の定番の風景でした。
また、試し書き用紙が黒く汚れるほど使い込まれていると、どこに書いても先人の跡と重なってしまい、新鮮な試し書きができないという状況も起きていました。「もう書ける場所がない!」と隅の方を探したり、重なっても気にせずに上から書いたりと、試し書き用紙の「残余スペース問題」は昭和・平成の文房具店あるあるのひとつでした。
さらに、本来の目的を超えた「落書き」が試し書き用紙に紛れ込むことも珍しくありませんでした。誰かの名前を告白するような書き込み、謎の哲学的な一言、見知らぬ誰かへのメッセージ——試し書き用紙は、小さな匿名の表現空間にもなっていたのです。
第6章:デジタル時代に試し書き文化が続く意味
スマートフォンやパソコンでの入力が主流となった現代でも、文房具店の試し書き用紙は健在です。そして令和の今も、そこには「あ」やぐるぐるが書かれています。
デジタル機器が普及して「手書き」の機会が減った時代だからこそ、試し書きの用紙に向かう行為には、かえって特別な意味が生まれているかもしれません。実際に手を動かして、紙にインクを乗せる感触——スクリーンには再現できないアナログの書き味を、試し書きの用紙で確かめることは、手書きへの回帰欲求を満たすひとつの場面でもあります。
また、万年筆やガラスペンなど、こだわりのある筆記具への関心が令和の現在に高まっていることも、試し書き文化の持続と関係しているでしょう。「書き味を実際に試す」という行為は、デジタル化が進むほどに、筆記具選びの重要なステップとして残り続けています。
昭和・平成を通じて積み重なってきた「試し書きに『あ』やぐるぐるを書く」という文化は、時代が変わっても変わらない人間の自然な行動として、令和の文房具店でも繰り返されているのです。
まとめ:試し書き用紙のぐるぐると「あ」は、人間の自然な本能の痕跡だった
文房具屋さんの試し書き用紙に「あ」とぐるぐるが大量に書かれているのは、「あいうえお」から始まる書字の習慣、ペンの書き心地を確かめるための合理的な動作、そして何も考えずに手を動かすときの最も自然な反射行動が重なった結果でした。
昭和・平成を通じて、文房具屋さんの試し書き用紙は無数の人々の痕跡を積み重ねてきました。「あ」「い」「う」という平仮名の練習に始まり、誰かの落書きや匿名のメッセージまで——試し書き用紙は、目的のない書き跡の集合体として、日常のなんでもない記録を残し続けてきたのです。
次に文房具店で試し書きをするとき、思わず「あ」と書いたり、ぐるぐるを描いたりしたら——それはあなたも、昭和・平成から続くその伝統の一端を担っているということかもしれません。
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